
シャンタルさんへ捧ぐ
3月19日(水)、シャンタル・セビルさんが亡くなりました。
苦痛の闘病の末に。
ご冥福をお祈りします。
フランス・ニュースダイジェストより(記事は更新されます)
http://www.newsdigest.fr/newsfr/index.php
http://www.newsdigest.fr/newsfr/content/blogcategory/6/26/
今日は、真面目な話です。
シャンタルさんは、8年間ガン顔面腫瘍と戦ってきました。
治療方法は現代の医学ではみつかっていません。
地元ディジョン地方裁判所に「安楽死願い」を出していたのですが受理されず、大統領へ手紙で直訴していました。
安楽死が合法的に認められているスイスで実行することも考えていたようです。
顔は病気により原型をとどめないくらいに変形しており、苦痛も相当なものであろうと想像できました。
体も痩せ細っており、視力もほとんど失っていたようです。
息子さん、娘さんや医療関係のボランティアさんの支えにより、日常生活は何とか営めていた様子でした。
REVU & CORRIGEというTV番組のインタビューでシャンタルさんは、「植物人間でこんな(植物人間状態を動作で示す)状態になってまで生きたくない。」と話されており、息子さんは「お母さんの望むことを叶えたいが、自分の母親なのに死んでほしいわけがない。 パラドックスだ。」と引き裂かれる心境を語られていました。
本人はもとより、近親者の方も相当つらいかっただろうと思います。
死因は現在不明です。解剖の結果が待たれます。
亡くなる数時間前に「痛みがよりひどくなっている。」と近親者にお話されたようです。
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「安楽死」
重たいテーマです。
簡単に結論づけられる問題ではないと思います。
こういう時に、いつも「自分だったらどうするだろう?」と考えます。
私もシャンタルさんのように、安楽死(尊厳死)を望むのだろうか?
シャンタルさんの願いをはばむものは、宗教観も絡む倫理の問題からきていると思います。
「生きていれば、いいことがある」なんて彼女の苦痛を前に無責任に言わないで欲しい。
シャンタルさんの幸福感は、シャンタルさん固有のものであり、既成の概念に規定されるものではない。
私は昔から、自分の世話を自分でできなくなった瞬間にぽっくり逝けたらいいなと考えています。
私にとって、「自由がないこと」=「死」なのです。
猫のように。
誰の手も借りずに、あるいは死に際も人に看取ってもらえなかったとしても、自分らしく死にたいのです。
他人の基準は関係ないのです。
ずっと前ににホームヘルパーの研修の一環として老人ホームを訪問しました。
そのホームは、人里離れた場所に立地しており、万が一外に出てしまうと迷って戻ってこれなそうな場所です。
財政上の問題から、そのような場所に建設せねばならないのはわかるのですが、隔離されている感じは否めませんでした。
訪問後、重たーい気持ちになりました。
老人ホームの中にも、喜びや生きがいはあるのでしょうが、私はそこに「自由」を見つけることができませんでした。
以降、自立を目指す人(老人含む)同士が助け合うコミュニティができたらいいなと漠然と夢見ています。
今までも、いろんな方が試みてきているでしょうから難しいのは承知しております。
いつかは向かえるであろう死を、前向きに捉えることが、今の生き方をより充実させることかもしれません。
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シャンタルさんがメディアに登場して、自分の姿をさらすことによって、フランスでは安楽死に対する関心・議論がより高まりました。
ここに、尊敬すべき勇気ある女性が命の灯火を消しました。
しかし、彼女の戦いは、同じような苦しみを抱えた方へ何らかの道筋を作る行為として、人々の心にともし火を燃やし続けると思います。 少なくとも私の心には。。。
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シャンタルさん、もう、痛みはないですか?
勇気を学ばせていただきました。 ありがとうございます。







セビルことは知りませんでした、読ませてもらった後に、ネットでさらにしらべました、私も入院経験があり、沢山の重病の人とすごした事があり、複雑な思いがわいてきます、生意気かもしれませんが、単にルールで割りいれない人間らしさは、あると思うのですが、難しいですね、私もご冥福をお祈りしました。
See you! (‐ι‐)
シャンタルさんの死後、議論が沸いており「彼女の願いが叶わなかったのに、遅いではないか!」と怒りの声も聞こえます。
苦しんでいる人の立場になって考えることが必要だと感じました。(涙)
信じて戦い抜いた従兄弟を見送ったところなので・・・
考えさせられました。
苦痛の中でも諦めんとホンマに最後まで頑張ったんです
制度としては・・・特に医療が進んだ先進国では議論の
必要ある制度やというのが個人的な意見です。
『死んでない』と『生きている』は同義語ではないと
思うんですよね。
ただ、どんな姿でもいい、生きていて欲しいと心から
願う母親(伯母さん)を見て思ったのは
自分の意識が無くなっても、そう願って延命されるなら
残酷な形ではあるけれども『愛されている』というその人らしい『生』なのかも知れないと。
制度があったら救われる家族もまた、少なくないんやろ
なぁ・・・とも思います。
シャンタルさんのご冥福を心からお祈りします。
従兄弟さんは、残念なことでしたね。
重い病気に侵されてなおかつ希望を捨てずに最後までがんばろうとされたのですね。
個人の意思が何にもおいて尊重されることを願ってやみません。
生きたい人、自分の望む方法で死を迎えたい人がその意志を尊重されること。
でも、残された家族はわりきれないだろうな、と察します。
かくいう私も昨年、愛猫を亡くした時に、延命措置を止めてということはできなかったし、たとえ「延命措置を止めて」という意志を確認できても、そのような措置を取れたか、疑問です。
ほんとうっに難しい問題なのです。